由緒

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浄照寺の由緒

天正十一年四月(1583年)豊臣秀吉が柴田勝家と織田信長の後継者の地位を争って賎ヶ岳で合戦。

このとき加藤清正・福島正則・片桐且元・秀吉ら七人の武将が槍を振るって勇名をはせ、世にこれを「賎ヶ岳の七本槍」と称して名高い。

その内の一人、平野權平長泰は数々の軍功により、田原本他六ヶ村を賜り五千石の領主となった。 その子長勝が二代目領主となり、田原本に陣屋を築造した。

先代の長泰より寺内町の経営を任されていた真宗寺院の教行寺との間に支配権のことで対立し、教行寺を箸尾へ立ち退かせた。

慶安四年(1651年)、この跡地に長勝は一寺を建立し、本願寺第十三世門主良如上人に寄付し、御門跡兼帯所(別院)として格式ある寺とした。
門跡寺院として筋壁(表塀の五本の筋)を許された。

また、本願寺御坊に列せられ大和に七十二ヶ寺の末寺や配下を持ち、重大な法要には本願寺門主あるいはその使僧を迎えて行うのが例となっていた。

御坊は大和に五ヶ所あり、今井・御所・高田・畝傍と合わせて五ヶ所御坊と称せられる。御坊は中本山のようなもので、特別の格式と権威を持っていた。

最初円城寺といい、寛延二年(1749年)寺号を改めて浄照寺と称した。

伽藍と本堂

本堂:(桁行 ) 20.17M (梁間) 20.40M (棟高)14.50M 一重入母屋造 向拝一間(6.32M)本瓦葺

慶安四年(1651年)第二代目領主平野長勝により創建。同年十月十八日落慶法要、但し向拝は安政六年(1859年)頃の補修。 内陣及び内外陣境の柱・長押・組物・欄間等は金箔押、或は極彩色で華麗な装飾を施している。

県下の大規模な真宗寺院の本堂の典型として高く評価され、昭和62年(1987)に奈良県の有形文化財(建造物)に指定された。

親鸞聖人大幅の御影:創建時に京都大谷本廟より拝領。親鸞聖人72歳の画像(絹本)。裏に「大谷本願寺親鸞聖人御影 釋准如慶長八年癸卯十月廿二日書之」と墨書。もと大谷本廟に永く安置されてあったものを特に本願寺より下付されたもので、国宝「鏡の御影」と酷似している。

奉納額:嘉永2年(1848)に寄進された本堂本尊前の奉納額「真解脱」は、田原本九代領主平野長發(ひらのながゆき)の筆。

山門:本瓦葺き、高麗門。伏見城の城門を領主が拝領して、これを下付された。

太鼓楼(了賢会館):本瓦葺二層。元来、長屋門と太鼓楼(番屋)は別棟であったが、明治頃に長屋門に移築。

平成26年春、耐震補強と内部の改修工事を行う。300年以上の永きに亘り秦庄九品寺了賢寺に安置されていた阿弥陀如来像を修復後安置し、法要儀式が行える多目的空間となった。
内陣及び外陣壁面は奈良在住の寺田知世画伯の絵画「極楽のあまり風」を全面に施している。

鐘楼:創建時頃の江戸時代初期の建築。平成14年に現在地に移築改修。梵鐘は京都大谷本廟より拝領した。太平洋戦争中の金属類回収令により供出するが、終戦後瀬戸内海の直島(香川県)の三菱鉱業製錬所にて奇跡的に発見され戻った「帰還穴あき梵鐘」。現在も除夜会および法要行事前に打ち鳴らしている。

御殿:江戸後期建築。京都在住のご門主や要人を迎える建物(対面所)。

明治10年(1877)2月10日、明治天皇行幸、畝傍山陵参拝のみぎり、ご休憩ご昼食。

明治23年(1877)4月24日、昭憲皇太后行啓、ご宿泊所となる。