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ありがとう  2006/6/1

先月は母の日があり、そして今月は父の日があります。
毎年何を贈ろうかと思案していますが、それを受け取ってくださる相手があればこそ、これをさせていただけることに父亡き後気づかされました。

さて、私が初めて命に対する願いを深く味わう縁をいただいたのは、小さな命が連れ合いのおなかではぐくまれているときでした。その中で男性の無力さを痛感した私は、せめて立会い出産で連れ合いと子どもの命の誕生を応援しようと思いました。
陣痛の痛みは、想像するしかありませんが連れ合いが死んでしまうかもしれないと錯覚するほど壮絶なものでした。
しかし大きく元気な産声が聞こえ、医師が母親のおなかの上に子どもを乗せたとき、「生まれてくれて有難う がんばったね」と先ほどの苦しみを全く感じさせない満面の笑みで子どもに、お礼の言葉をかけたことに、大きな感動と恥ずかしさを覚えました。
それは、私も何十年か前に経験したはずなのですが、そのことはすっかり忘れてしまい、大人になるにつれ、自分ひとりで大きくなったように勘違いをしていたことに気づかされたからです。

善導大師の書かれた礼讃文に「人身受けがたし 今すでに受く 仏法聞きがたし 今すでに聞く この身今生に向かって度せずんば さらにいずれの生に向かってか この身を度せん」というお言葉があります。
「せっかく人として生まれたはずの、掛替えの無い生命をそなたはどこに向かわせているのか、どこに向かっているのか?」と大変厳しく問いかけられているのです。
たしかに私自身が、行くべき方向を見出せなければ、ただ放浪の人生を生きているといっても過言ではありません。

しかしそんな私に阿弥陀さまは、「共に歩んでいこう」とお浄土という人生の進むべき方角をはっきりとお示しくださいました。
そのことにより、いただいた人生を精一杯生き抜く力をくださったとも味わうことができます。
そのお心に出遇わせていただいたお陰で、私は悲喜交々の日をすごしながらも、阿弥陀さまが願い喚(よ)び続けてくださるお慈悲のお心に「ありがとう」とお礼させていただきながら力強く歩んでいくことが出来るのです。
                                釋智見